宝箱

すきの定義は「心を動かされる」こと

Narrativeとあやめ/終わりと始まり

加藤さんのラジオでこんな話があった。

ていうかまぁ、一曲一曲で完成してないからね、あやめ以降は。どうしてもあやめのあとになにを作るか、氷温。氷温のあとになにを作るか、世界、みたいな、こう、点が線になってるっていうかね。うん。線が描いて、まぁ、Narrativeに関しては、それをあやめに繋げるようなイメージではありましたけどね。もう作るということ自体がね、表現してやりましたんでね。

(SORASHIGE BOOK 2021.6.13回)

待って。なんかすごいことをえらいさらっと言うじゃないですか。

なんと4部作の最中に作っていた4曲のソロ曲は繋がっていたのです。鳥肌がたった。

この話を聞いて真っ先に思ったことが、「Narrativeで落ちた先があやめの世界だったのではないか」ということ。この2曲の繋がりが一番気になる。というか、きっと循環の肝だと思った。

加藤さんは以前セルフライナーノーツでNarrativeについてこう語っていた。

自分の内にある衝動やこれまでの経験を思い切り原稿用紙に殴りつけ、語り尽くす。

言葉になり切らない未完成の声をとにかく綴り、やがてページとなっていく・・・

あらゆる思いを抱えて放たれた叫び。それらを詰め込んでできた本の1ページ目を誰かがめくることになる。書くことの終わりは、読むことの始まりへと繋がっていくのです。

なるほど。ライブで見たNarrativeのことを思い出す。宙に文字を書きながら階段を登っていく。裸足で。書く、上る、書く、上る。その先に待っていたのは終わりだった。背中から下へ落ちていく。まるでこの世で役割を終えたかのように、自然と。あのとき、「この世で役割を終えたかのように」が「死」のように見えた。それは書き手が語り尽くした後だったのだ。声を綴り、物語に託し、書いた人としての輪郭を失っていく。それが「書くことの終わり」。

落ちた先でその人は倒れ、寝転んでいた。暗闇の中で。裸足で。これが「読むことの始まり」。つまり物語の1ページ目。ここからは書き手が「原稿に殴りつけ、語り尽くす」ように綴った、「言葉になり切らない未完成の声」だ。それは平和や自由や愛を願う圧倒的「生」だった。そんなことを、4年越しに知ることになるなんて、まさか思わないだろう。あやめを描ける人はやはり作家だったのだと思い知る。

おもしろいことに、このソロ曲のリレーはNarrativeからではなく、あやめから始まる。Narrative→あやめ→氷温→世界という順番なら、「もしかしてこれは物語なのでは?」と勘づくことができたかもしれない。しかし実際はあやめ→氷温→世界→Narrativeであり、最後までその全貌が見えることはなかった。正直繋がっているなんて思いもしなかった。Narrativeがあやめに繋がってると知る前と後では全く見え方が違うので、後からバラされた関係性には完全に意表を突かれた形になる。

Narrativeで迎えた「死」の後に訪れたあやめという「生」という話で言うと、死後の世界、苦悩から解き放たれて自由な場所に生きているという風にも見える。そう考えて一番に思い付くのが、キリスト教。つまり救済宗教や「死は救済」という概念。まぁキリスト教に限らず宗教ではよくある考え方ですが。ミッション系大学出身であるものの、キリスト教関連の授業を真面目に受けた記憶がないため、そのあたりにはあまり詳しくない。ゆえに深く語ることもできないんだけど、加藤さん自身はきちんと触れたことのある人間だと思うので、そういう概念も包含しているのかなと少し感じましたね。

物語が進むと、「どこかで生きてる俺もどうすりゃいいの」と葛藤の渦に飲み込まれながら「貴様が世界だ」という声に背中を押され、その人は筆をとり、「自分の内にある衝動やこれまでの経験を思い切り原稿用紙に殴り」…… そう、書き手となる。こうして循環していくのだとハッと気がつく。まるで輪廻転生のようで、とても壮大に見えつつも、一人の人間の心の中の小さな話なのかもしれません。それにしてもあやめから作り始めてあやめに戻ってくる流れを、こんなにドラマチックに作り出せる加藤さんの脳みそ、興味深すぎる。

 

まだ掴みきれていないのが氷温の立ち位置なんだけど、このテーマの中に氷温を入れる加藤さんはとってもロマンチスト。そういうところがすきですね。今日までに考えたのはひとまずここまで。